御 由 緒
神奈川県横浜市中区西之谷町に鎮座する皇太神宮は、氏子崇敬者より「北方皇太神宮」と親しまれる、横浜山手の総鎮守である。御祭神は天照大御神。社伝によれば創建は平安時代後期の天永年間(1110〜1112年)と伝わり、以来900年余りにわたって北方の地の人々を守護し続けてきた。
- 御祭神
- 天照大御神
- 創建
- 天永年間(1110〜1112年)
- 旧社格
- 村社
- 鎮座地
- 横浜市中区西之谷町
創建と旧社地・伊勢山
当宮の旧社地は、現在の横浜港を望む高台、久良岐郡北方村字泉谷(字泉)に位置し、この地は伊勢信仰にちなんで「伊勢山」と呼ばれていた(神奈川県神社誌)。現在のワシン坂上公園付近にあたる。天永年間の創建年月日や創建者の詳細は不明であるが、文政13年(1830年)成立の新編武蔵風土記稿には「北方村字泉谷に太神宮あり、除地五段、村の中程なり、東漸寺の持」と記録されており、江戸時代には別当寺の東漸寺が管理していた。また安政6年(1859年)に作成された御持場海岸分見画図にも現代のワシン坂付近に太神宮の鎮座が確認される。
横浜開港と遷座
安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結、翌安政6年の横浜開港を経て、慶応年間(1865〜1868年)に旧社地一帯が外国人居留地に編入された。現在の山手地区にあたるこの地への編入により、当宮は移転を余儀なくされ、明治3年(1870年)、現在の西之谷町に遷座した。明治維新の神仏分離令に伴い、別当寺の東漸寺からも分離し、独立した神社として新たな歩みを始めた。
地域の社号伝統を受け継ぐ
当宮の正式名称「皇太神宮」は、伊勢神宮内宮の古称に連なる表記です。「皇太神宮」という名称は、延暦23年(804)成立の伊勢神宮の儀式書『皇太神宮儀式帳』にも用いられた由緒ある表記です。
明治5年(1872)、伊勢神宮の公式神号は「太」から「大」へ統一され、内宮は「皇大神宮」と表記されることとなりました。しかし、「皇太神宮」「太神宮」は古文献・史料名および地域の社号として伝えられてきた歴史的表記です。
当宮は、江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』に「太神宮」と記録される北方の神社として、この歴史的な社号伝統を受け継ぎ、今日も「皇太神宮」を正式名称としています。
社格の確立と近代の変遷
旧社格は村社。大正8年(1919年)9月9日には神饌幣帛料供進神社に指定された。社殿は大正8年(1919年)に神明造檜皮葺で造営された(設計:伊藤平左衛門)。大正2年(1913年)には麒麟麦酒株式会社(現・キリンホールディングス株式会社)から灯籠の寄贈を受けており、当宮が山手の文化・産業の歴史とも深く結びついていたことを示す。
| 大正2年 (1913年) |
麒麟麦酒株式会社(現・キリンホールディングス)より灯籠の寄贈を受ける |
|---|---|
| 大正12年 (1923年) |
9月1日:関東大震災により鳥居・社務所が焼失。宮司が炎の中で祈り続け、神霊の加護により本殿は焼失を免れたと伝わる |
| 昭和20年 (1945年) |
5月29日:横浜大空襲により社殿全焼 |
| 昭和21年 (1946年) |
仮社殿を再建 |
| 昭和25年 (1950年) |
神楽殿を再建 |
| 平成6年 (1994年) |
現在の社殿を神明造で新たに造営 |
伊勢神宮との深い縁と御用材の手水舎
当宮と伊勢神宮との縁は格別である。平成7年(1995年)、伊勢神宮の第61回式年遷宮に際し、神宮より「別格の思召を以て」内宮御正殿瑞垣柱をはじめとする御用材の下賜を受けた。この御用材によって手水舎が改築され現在に至る。
境外末社・諏訪神社と境内社・福徳稲荷神社
諏訪神社
当宮の管理下には境外末社として諏訪神社(横浜市中区諏訪町)がある。大正元年(1912年)10月に現在地に遷座し、大正12年(1923年)9月の関東大震災で社殿が焼失したが再建され、現在も北方皇太神宮の境外末社として存続している。
福徳稲荷神社
境内には福徳稲荷神社が鎮座し、倉稲魂神・猿田彦神・大宮能売神を祀る。日本三大稲荷の一つ・祐徳稲荷神社から御分霊を勧請したもので、商売繁盛・芸能技芸上達のご利益で知られる。
御祭神:倉稲魂神・猿田彦神・大宮能売神
伊勢山の高台から横浜港を見下ろしていた古社は、
開港という歴史の波に押し流され現在地へと移り、
震災・空襲の炎をくぐり抜けながら今日に至る。
「太」の一字に刻まれた平安の記憶、
伊勢神宮から下賜された瑞垣柱の手水舎、
大正3年奉納の狛犬、
そして麒麟麦酒から寄贈された灯籠。
横浜の近代史と伊勢信仰の深層が凝縮されたこの境内は、
山手の氏子崇敬者に見守られながら、
今も静かにその使命を果たし続けている。